今でこそ、フリーランスや起業家としてビジネスオーナーだったり、リモートワーカーや副業中と自分らしいキャリアや働き方をしていそうに映る人達も、過去には私達と同じ様に悩み、悶々と考えていた時期があるはずです。
コワーキングスペースという場所柄、私達のfactoriaには、多様なキャリアや働き方をしている身近なロールモデルがたくさん集っています。
そんな彼らに、今のキャリアや働き方に至った背景やその時に悩み、考えていたことなどの経験談を根掘り葉掘りインタビューさせて頂くシリーズ。
第2回目のゲストは、サッカーをスポーツ視点、カルチャー視点、ビジネス視点と様々な角度から取材、執筆されている宇都宮徹壱さんです。
サッカージャーナリストとして著名な宇都宮さんに、素人の私がインタビューをするということで、大変緊張していましたが、終始リードして頂きながら楽しくインタビューをさせて頂きました。
また、メンバーインタビュー連載を始めるにあたり、多大なるアドバイスを頂けたことに改めて感謝しています。
それでは、宇都宮さんのインタビューをお楽しみください!
今、どんなことをされているのか、自己紹介をお願いできますか? 写真家・ノンフィクションライターとして、国内外のサッカーの取材、撮影、執筆を生業としています。
また13年前から、和光大学でスポーツメディア論の講師もしています。
独立前のキャリアについて伺えますか?
大学入学のため2年間の浪人を経て、東京芸術大学と大学院にも進学したため、社会に出たのが1992年の26歳と遅めのスタートでした。 当時はバブル崩壊直後。1966年生まれのバブル世代ですが、社会にでるのが遅かったため、バブルを謳歌できなかったバブル世代でした。それでも、就職活動期間中は楽勝ムードがありましたね。
新卒採用となった一社目は、企業の就職活動を支援するビデオ制作会社に入社しましたが、バブル崩壊の景気悪化が直撃。会社業績が悪化したことを受けて、社内のムードも悪くなり、仕事にやりがいも見入出せず、スキルのないまま28歳で退職しました。 たまたま求人が出ていた会社にいくつか応募しましたが、28歳で社会経験もスキルもないためか、面接しても連敗続き。そんな自信の失せた中で転職したのは、テレビのスポーツ番組を得意とする制作会社でした。そこでは海外サッカーの担当となりました。 入社した一番の理由は、大学院修了時に「表現する人間になりたい。一つは写真、もう一つは映像に携わることをしたい」と考えていたからでした。映像制作の仕事って、当時は大勢の人が携わる仕事だったので、そのような環境で経験を積むことはいいのかなと思い就職しました。もっとも、テレビ業界というのは今でいうブラックで、不規則、徹夜は当たり前。休日は週1日しかないし、直属のディレクターが昔気質のパワハラ上司でした。精神的に痛めつけられ、どうも自分にはテレビの仕事は合わないことを悟って、2年経った30歳を過ぎて退職を決めました。 一、二社目の転職時に共通することですが、当時は前向きなキャリアアップという発想はなかったですね。そんな中、最後に退職した時に考えたのが「31歳までに『写真家宣言』しなければならない」ということでした。
実は、尊敬する写真家である荒木経惟氏・通称アラーキーが31歳で写真家宣言をしていたんですね。それで自分でも「31歳までに」と締め切りをつくったんですよね。では、どうやって実現したらいいのか。とりあえずの結論は、日本以外で自分を追い込む場所に行って、そこで写真を撮ろうということでした。
中古のフィルムカメラと、フィルムロールをありったけ抱えて向かった先は、戦後直後の旧ユーゴスラビア(スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア)。1ヶ月間の写真撮影と自分探しの旅に出ました。その当時は、今のようにインターネットも普及していなくて、現地情報は何もない。海外旅行のガイドブック『地球の歩き方』でも危険地帯という認識でしたね。
なぜ、そんな危険な場所を選んだのですか? テレビの制作番組会社に勤務していた時にドイツ・スペイン・イングランドなど海外サッカーを紹介する番組の編集担当をしていました。スペインにはリーガ・エスパニョーラというリーグがあり、そこで東ヨーロッパ出身の選手達が活躍していたんですね。スペインというとヨーロッパの中でもうんと西側で遠く離れた東ヨーロッパ出身の天才肌のタレントたちが多く活躍していました。今みたいにシステマチックなサッカーではなく、もっと天才が輝いていた時代で、日本ではセルビア出身のドラガン・ストイコビッチというスーパースターがいました。そんな素晴らしいタレントを生み出した旧ユーゴスラビアって、どんな国なんだろう?戦争で大変な目にあったはずなのに、なぜこれだけのスター選手が出てくるのか?そんな好奇心にも背中を押されて、思い切って旅立っていきましたね。 帰国後の仕事はどうでしたか?
帰国後、まったく仕事はなかったのですが、そんな中、前職でお世話になった方から出版社を紹介され、旧ユーゴスラビアで撮影した写真とそこでの体験を本にする機会に恵まれました。
当時の出版界は、面白い若手を見出して世に出そうというマインドがあり、1998年にデビュー作『幻のサッカー王国』を出版しました。写真は全てモノクロ内容はサッカーだけでなく、歴史や現地の人の日常風景だったり、彼らとサッカーとの繋がりなども盛り込みました。余談ですが、書き手が世に出るでるかどうかは、優秀な編集者に出会えるかどうかが大きいと、今でも思っています。 元々、サッカーライターになりたかったわけではないんです。それにサッカー界で食っていくには、新聞社や専門誌出身でコネや実績がないと難しいのですが、私の場合はいきなり本を出してしまった。要するに、業界的には「扱いづらいライター」だったわけです。本は出したが、仕事もなく、全く無名の状態は変わらず、2000年まで食うための仕事はいくつも経験しました。 例えば、カルチャースクールで主婦に写真の撮り方をレクチャーしたり、昼は別の仕事をしたいから夜中に印刷会社のスキャニングの仕事をしたり、イベント設営のバイトをしたり、33歳までそんな生活をやっていました。 さすがにこのままではキツイなと思っていたタイミングで、サッカー仲間である年上の友人 で、スポーツビジネスの第一人者と言われる広瀬一郎氏から、スポーツのポータルサイト事業を企画しているので、一緒に会議に参加しないかと声をかけられました。それが2000年の1月のことでしたね。そこからあっという間に、スポーツナビ(当時は電通と三菱商事が出資、現在はヤフー・ジャパン傘下前)の立ち上げに参画し、フリーランスという立ち位置で、国内外の取材を任せて頂けるようになり仕事も忙しくなっていきました。
ちょうどその頃は、ネットメディア勃興期と言われた頃でした。またサッカー界では、1998年に日本がW杯初出場、2002年に日韓でのW杯共同開催と大きなイベントが重なり、一気にスポーツメディアの市場が急拡大した時期でした。それまでサッカーライターは、紙媒体に書くのみだったのが、Webメディアというニューフロンティアが広がっていきました。メディアも新しい書き手を欲していたタイミングでしたので、一気に書く場所が与えられたことはラッキーでした。
インターネットは、書いた人間の名前が広まるという作用もあるため、文章と名前の露出が増え、仕事の幅を広がり、ようやく生活も落ち着きました。結果、W杯を6回取材し、スポーツナビでは、フリーランスとして立ち上げから2019年まで20年間お世話になりました。
これはもちろん、狙ってできたことではなく、色々な偶然が重なった結果だったと思っています。当てずっぽうな努力と回り道もありましたが、うまく時代の流れと自分のやりたいことがマッチして波に乗れたおかげだと思っています。そして何より、いい出会いに恵まれたおかげだと思います。
なぜ、フリーランスになったのですか?
あまり正社員という立場に興味がないし、向いてないと思ったからですね。自分が40歳を過ぎて、管理職になっているイメージが掴めなかったし、できる限り取材現場に居たいという気持ちもありました。いつかは仕事の依頼がなくなる時が来るだろうから、それまでには自分のメディアを立ち上げたいとも考えていました。
factoriaとの出会い、入会後の感想はどうですか?
長年フリーランスでやってきたので、一人でいることに耐性もあるとは思っていましたが、このまま一人で仕事をしていくのがしんどいなと思っていた時に、サッカー仲間からコワーキングスペースfactoriaを紹介してもらったことがきっかけです。
また、同業の人達とばかり交流しているのも、色々な意味でよろしくないなと考えていました。factoria色々な分野、世代、バックグランドを持った人達との接点が持てます。自分にとっては、まさに理想的な仕事場ですね。 そうした刺激を受けるのは大事だなと、factoriaに通うようになってから感じました。
今後は、自分の知見やナレッジを他のメンバーの仕事に結び付けたり、役立てることができないか、いろいろ考えながらトライしたいと思っています。
キャリアや働き方に悩み、考えている人へのメッセージやエールをお願いします。
まず「失敗を恐れる必要はない」ということです。一度失敗したら人生が終わりだ...みたいな考えや、失敗を許容しない社会のあり方こそが問題であり、、失敗そのものは全然ありだと思います。むしろいろんな失敗を重ねて、あちこちに頭をぶつけながらも、今も生きていけてることの方が大事です。
それともうひとつが「出会いを大切にしてほしい」ということ。私自身、いろんな出会いがあって生かされていると思います。今はコロナで試合がありませんが、ネット回線を使った対談やトークイベントを開催するのに、これまで培ってきた人脈をフル活用できています。そうした、人脈や人材の貯金のおかげで、今は生かされていると感じています。
今後の目標や野望を聞かせて頂けますか?
今年の目標は、本を2冊書く予定でしたが、コロナの影響で棚上げ状態です。
ですが、こういう状況だからこそ考えるのは「自走できるライター・写真家・表現者」としてのスタイルを確立すること。つまり、自分自身がメディアとなって、事業をまわしていけることを目指していきたいですね。そのためには、
企画・取材・編集・写真や動画のアップを自分でできないといけないし、もちろんマネタイズしていくことも必要です。まずは自分がトライすることで、後に続く人たちが増えてくれればいいなと。
スポーツで生計を立てていた人達、ライターやフォトクラファーからは「今は仕事がなくて」という話があちこちから聞こえてきます。とはいえ、試合がない今だからこそ、書くべきことはいくらでもあると思います。
スポーツの楽しさや奥深さ、その可能性、社会的意義、ポストコロナ、ウィズコロナで今後スポーツがどうなっていくのか? 伝えるべきテーマは、いっぱいありますよ。そんなことを日々考えていますね。
宇都宮徹壱氏プロフィール
東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。『フットボールの犬 欧羅巴1999-2009』(同)で第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞、『サッカーおくのほそ道』(カンゼン)で2016サッカー本大賞を受賞。2016年より宇都宮徹壱ウェブマガジン(WM)を配信中。お仕事のご依頼はこちら。
メディア紹介 宇都宮徹壱ウェブマガジン https://www.targma.jp/tetsumaga/
Twitter https://twitter.com/tetsumaga
主な著書
『幻のサッカー王国』(勁草書房、1998年)
『サポーター新世紀』(勁草書房、1999年)
『ディナモ・フットボール』(みすず書房、2002年)
『股旅フットボール 』(東邦出版、2008年)
『フットボールの犬』(東邦出版、2009年)
『松本山雅劇場 松田直樹がいたシーズン 』(カンゼン、2012年)
『フットボール百景』(東邦出版、2013年 )
『サッカーおくのほそ道』(カンゼン、2016年)
『J2&J3 フットボール漫遊記』 (東邦出版、2017年)
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